出雲神一族は、大陸から渡ってきた渡来人のグループですが、大陸で長く続いた戦争に嫌気がさし、この日本列島に古くから根づいていた素朴な宗教観との融合をはかろうとしていたふしがあります。
 大和、つまり畿内には、その出雲族の拠点がありました。もちろん、現在の出雲地方あたりまでは十分に勢力圏内でした。
 一方、九州には後にやってきた別の渡来人グループが、地方国家と呼べるものを築きつつありました。これが後に、天照大神を始祖とし、日本の歴史を支配していくことになる天孫(てんそん)族です。記紀、つまり古事記と日本書紀は、この天孫族の側から書かれた歴史書ですね。
 余談ですが、邪馬台国は九州にあったのか畿内にあったのかに関して今でも論争が続いていますが、ぼくは基本的には九州説です。でも、当時、畿内には先発組(出雲族)が、すでにもっと大規模な国家を作っていたことも確実でしょう。つまり、九州にも畿内にも、国家に近いものがすでに存在していたのです。国の規模は、出雲族の畿内国家のほうがずっと大きかったはずです。つまり、当時の主流があくまでも九州ではなく畿内だったという意味では、邪馬台国畿内説も正しいわけです。
 中国大陸側の資料である魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は、文脈を素直に読む限りは九州に位置しています。これは、九州組(天孫族)が中国(魏)に対して、畿内には出雲族によるもっと大きな国家があることを伏せたまま、自分たちの国の情報だけを伝え、倭国として認知させることに成功したということを意味していると思うのです。
 九州組はその後「天孫」を名乗り、畿内にすでに一大勢力を持っていた出雲神一族と結合します。このくだりを記紀では神武天皇東征の神話という形で伝えていますが、実際には単純な征服ではなく、取引や契約、姻戚工作などを複雑に重ねた上での合体だったと思います。
 出雲神は、日本古来の宗教観を取り込んで、先住民を精神的にコントロールする技術と経験を持っていた。後から来た天孫族にも、後々列島全体を支配するためには、そのノウハウがどうしても必要だった。
 しかし、武力は天孫族のほうが圧倒的に勝っていたんですね。これには製鉄技術が大きく関係しているはずです。後からやってきた天孫族のほうが、はるかに進んだ武器を持っていたんでしょう。
 銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏というのがありますが、ぼくは、銅鐸(祭事の道具)が出雲神のシンボル、銅剣・銅矛(つまり武器)が後発の天孫族のシンボルのように思えてなりません。
 この国を支配するためには、どちらも必要だったのです。だから両者は手を結んだ。
 銅鐸と銅剣が一緒に出土するのも、これらが次第に合体したことを意味しています。また、銅鐸が壊されて、まるで埋葬されているかのように出土するのは、最終的には、銅鐸に象徴される出雲神の精神支配が、天孫族の武力信奉によって打ち破られたことを意味しているような気がします。

(『鬼族』より)


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